熊本ここだけの話
今に生きる産業遺産
熊本には石造りの橋や門がたくさん残されている。代表的なものとしては山都町の通潤橋や美里町の霊台橋などであるが、実は八代地域にも多くの石橋などが残っている。
九州でも一、二を争う米どころの八代平野は、干拓の歴史の積み重ねでできた土地である。文献によると、1821年に行われた大干拓工事「七百町新地」は、用水延長18km、橋56橋、排水樋門53ケ所の大プロジェクトであったが、実はこの当時の石造りの樋門等がいまだ多数残っている。
この大プロジェクトの石工総監督を務めたのが、肥後の石工の中でも特に卓越した技術を持っていた鏡町出身の「岩永三五郎」であった。三五郎は、熊本で初めての水路橋「雄亀滝橋」をはじめ、薩摩藩の招請を受けて、西田橋をはじめとする鹿児島「五大橋」を架設するなど、肥後の石工の名声を大いに高めた人物で、鹿児島県立石橋記念館ではその功績が大きく取り上げられている。
八代市は、古くから石工の里として全国にその名を轟かせた地であるが、特に東陽町(旧八代郡東陽村)は、しようがと石工の里として知られおり、江戸時代には石橋文化の一翼を担った種山石工集団を生み出し、彼らは全国的にも有名な目鑑橋を幾つも築いた。
この八代市東陽町に「石匠館(せきしょうかん)」という石に関する博物館があるが、ここでも岩永三五郎や、霊台橋や皇居二重橋を架けたとも言われている橋本勘五郎などの肥後の石工たちの活躍の歴史を見出すことができる。
ただ残念ながらこのような熊本が生んだ大偉人が、熊本ではあまりスポットがあてられておらず、名前すら知らない人が多い。八代市鏡町には、三五郎が作った橋が現在もしっかりと残され、墓地には家族の墓石とともに三五郎の石像が建立されている。市の教育委員会等がわずかなアピールをしてはいるが、全国トップレベルの石工として大功績を残した偉人の轍としてはあまりに寂しい。
まだ科学や構造力学が発展していない当時、石工たちの驚くべき知恵と技、職人魂によって生み出された石橋や樋門は、人々の生活を支え、静かに見守ってきた。そして今日でも、石造りの文化は重厚でぬくもりも感じさせる姿を保ち、人々の暮らしに根づいている。
石の文化を訪ねる旅、熊本はこの分野でも輝く歴史を感じさせる。
(企業立地課 小野上)
~住んでみたい行ってみたいまち くまもと②~